私は今日も、家から逃げて仕事をする。
2026/10/13
私は今日も、家から逃げて仕事をする。
わたしが気持ちいいとおもうところで仕事をしたいだけの話
私は最近、外で仕事をしている。
正確に言えば、外で仕事をすることにハマっている。
レジャーシートを敷く。
机を置く。
椅子を置く。
パソコンを開く。
スマートフォンでテザリングをする。
そして、仕事をする。
これだけのことである。
これだけのことであるのに、私はたいへん機嫌がよい。
どうしてなのか、よくわからない。
ただ、気持ちがいい。
ものすごく気持ちがいい。
これはたぶん、身体のどこかにいる原始人が喜んでいるのだと思う。
「そうだ。こういうのがよかったのだ」
と、原始人が言っている。
私はそれを、最近になってようやく聞いた。
水のそばがいい
私は水のそばが好きだ。
これはもう、かなり好きだ。
幸い一級河川が近くにある。
流れのある川には、あまり匂いがない。
草の匂いがする。
涼しい風が吹いている。
水が、チョロチョロ流れている。
たまに魚が跳ねる。
ぽちゃん。
それから、何事もなかったように川は流れている。
近くにはミツバチがいる。
私は虫が苦手ではないので、これもたいへん都合がよい。
ミツバチは仕事をしている。
私も仕事をしている。
しかし、ミツバチのほうが、私よりずっと真面目に仕事をしているように見える。
私はときどき魚を見る。
ミツバチを見る。
空を見る。
それからまたパソコンを見る。
仕事は、ちゃんと終わる。
不思議なものである。
家で仕事をしているときより、むしろ仕事が仕事らしく片付いていくような気さえする。
これまで私は、家で仕事をしていた
これまで私は、かなり家にいた。
パソコンがある。
机がある。
インターネットがある。
仕事はできる。
わざわざ外へ出る必要などない。
合理的である。
私は合理的な人間でありたいと思っていた。
しかし、合理的な人間というものは、ときどき、たいへんつまらない。
「どうして外で仕事をするの?」
と聞かれる。
知らない。
私だって知らない。
ただ、晴れているからである。
風が気持ちいいからである。
川が流れているからである。
それだけである。
それだけの理由で、私は机を車に積む。
ずいぶん立派な理由ではないか。
少なくとも、私にとっては。
晴耕雨読というもの
昔の人は、晴れた日は田んぼを耕し、雨の日には本を読んだ。
晴耕雨読という。
私はこの言葉が、最近になって急に好きになった。
寒いときには寒いなりに暮らす。
暑いときには暑いなりに暮らす。
雨が降れば雨の日の仕事をする。
晴れたら外へ出る。
ずいぶん当たり前の話である。
しかし、私たちはいつの間にか、天気など関係なくなった。
暑くても寒くても、部屋の中にいればいい。
昼でも夜でも、電気をつければ明るい。
遠くの人とも話ができる。
仕事だって、パソコンひとつでできる。
便利である。
実に便利である。
その便利さのおかげで、私は川のそばで仕事ができる。
なんという皮肉だろう。
文明が私を自然から遠ざけた。
そして文明が、私をもう一度自然の中へ連れていってくれる。
私はこのことを、なかなか面白いと思っている。
人間は、たぶんもっと単純だった
私はここ数年、心身の調子を崩したこともあって、心療内科や精神科に通っている。
自律神経の調子が悪くなったり、眠れなくなったり。
身体と心のリズムが、どうもうまく噛み合わない。
そういうことを何年か経験してきた。
だから最近になって、
「もっと単純なことをすればよかったのではないか」
と思うことがある。
朝になったら明るい。
夜になったら暗い。
外には風がある。
水が流れている。
草が生えている。
人間は昔から、そういうところで暮らしてきた。
それなのに私は、真夜中まで部屋の中でパソコンを光らせて、
「どうして眠れないのだろう」
などと考えている。
そりゃ、身体も困る。
身体からすれば、
「お前、いったい何時代の人間なんだ」
という話である。
私は、自由でありたい
私は、所有物にあまり興奮しない。
高いものを買った。
新しいものを手に入れた。
それで人生が大きく変わる、という感覚はあまりない。
それより、
「今日はどこで過ごそうか」
と考えられることのほうが嬉しい。
晴れたから外へ行く。
川のそばが気持ちよさそうだから、そこへ行く。
仕事が終わったら帰る。
雨なら家にいる。
それでいい。
私は、自由でありたい。
立派な家に住みたいわけでもない。
高級な車に乗りたいわけでもない。
ものすごい肩書きが欲しいわけでもない。
ただ、自分が今日どこにいるのかくらいは、自分で決めたい。
それくらいのことは許されてもいいと思っている。
フリーランスでありたい
私はフリーランスである。
そして、自由に仕事してる人でありたい。
仕事を自由にしたいから、というより、
生き方を自由にしておきたいから、仕事も自由でありたい。
たぶん、こちらのほうが正確だ。
私は仕事だけをしたいわけではない。
仕事をしながら、風も感じたい。
仕事をしながら、川の音も聞きたい。
仕事をしながら、魚が跳ねるところを見たい。
仕事をしながら、たまには何も考えたくない。
そういうものを全部ひっくるめて、一日の中に置いておきたい。
そして私は、車を小さな部屋にした
私が乗っているのは、もう生産終了しているHondaシャトルという車である。
これが、たいへん広い。
後部座席を倒すと、後ろがほとんど平らになる。
奥行きは170センチちょっとある。
身長160センチの私なら、余裕で寝転がれる。
私はこれを見て、
「これはもう部屋ではないか」
と思った。
そこで、ちょっと改造した。
トランクを開ける。
荷物を出す。
パソコンを置く。
仕事をする。
これである。
家の中にいると、子どもたちの声がする。
家族の生活音もする。
それは嫌いではない。
むしろ家族がいるのだから、当然である。
しかし、オンライン会議などになると、少し気を遣う。
そんなときは車へ行く。
トランクを開ける。
私は小さな個室を手に入れる。
しかも、その個室には壁の代わりに空がある。
なかなか贅沢な話である。
私が乗っているのは、もう生産終了しているHondaシャトルという車である。
これが、たいへん広い。
後部座席を倒すと、後ろがほとんど平らになる。
奥行きは170センチちょっとある。
身長160センチの私なら、余裕で寝転がれる。
私はこれを見て、
「これはもう部屋ではないか」
と思った。
そこで、ちょっと改造した。
トランクを開ける。
荷物を出す。
パソコンを置く。
仕事をする。
これである。
家の中にいると、子どもたちの声がする。
家族の生活音もする。
それは嫌いではない。
むしろ家族がいるのだから、当然である。
しかし、オンライン会議などになると、少し気を遣う。
そんなときは車へ行く。
トランクを開ける。
私は小さな個室を手に入れる。
しかも、その個室には壁の代わりに空がある。
なかなか贅沢な話である。
自由というのは、たぶんこういうことだ
自由というと、もっと大きなものを想像していた。
好きな場所に住むとか。
好きな仕事をするとか。
いろんなところを飛び回ったり。
時間を全部自分で使うとか。
そういうものだと思っていた。
けれど、最近は少し違う気がする。
晴れた日に外へ出る。
風が気持ちよければ、そのままそこで仕事をする。
眠ければ少し休む。
雨なら家に帰る。
そんな小さな選択を、自分で決められること。
もしかすると、自由というのは、そのくらいのものなのかもしれない。
大げさな旗を掲げなくてもいい。
革命を起こさなくてもいい。
ただ、
「今日は川のそばで仕事をしよう」
と思った日に、本当に川へ行ける。
それだけでも、かなり自由だ。
私は、自由でありたい。
だから、明日も晴れたら外へ出る。
雨だったら、本を読む。
仕事があれば、仕事をする。
魚が跳ねたら、見る。
ミツバチが飛んできたら、少し避ける。
そしてまた、パソコンを開く。
カタカタと仕事をする。
それでいい。
私は、そういうふうに生きていたい。
だから、明日も晴れたら外へ出る。
雨だったら、本を読む。
仕事があれば、仕事をする。
魚が跳ねたら、見る。
ミツバチが飛んできたら、少し避ける。
そしてまた、パソコンを開く。
カタカタと仕事をする。
それでいい。
私は、そういうふうに生きていたい。
クウガ写真研究所
クウガ/中西佑子
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クウガ
中西 佑子
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ニューボーンフォト他撮影多数


